大原麗子さん、私は頑張ったから病気になった
2009年 08月 07日
手足の運動麻痺が起こる病。
聞いたこともない病に大原麗子さんは侵されていた。発症したのは今から33年前、29歳のときだった。30年以上前といえば、女優として絶頂期を迎えていたころだ。
84年の「男はつらいよ」のマドンナ役での記者会見では「いつも遺作だと思いながらやっている」と意味深な発言をしているほか、94年の舞台発表でも「舞台をやると体を壊してしまう。遺作になるかも知れないので観にきてね」とあの甘いハスキーな声でPRしている。
この病気のことは隠し続けていたので、誰も遺作の意味を真剣に取るものはいなかった。薬を飲みながら映画や舞台を続けていた。
ここ最近、仕事を離れていたのは世の中で一番大切な人でもある90歳になる母親の看病のためだった。リュウマチを患い、心臓の弱い母親を自宅介護に専念していた。
病気が再発したのは去年11月だった。
自宅の駐車場で倒れ、四つんばいになって受身をしようとしたときに右手首を骨折してしまった。
ギラン・バレー症候群の再発を心配した母親が寝込んでしまい、それを逆に心配して子供のように泣きじゃくった。
リハビリを兼ねて自宅から300メートル離れたコンビニへ2リッターのペットボトル3本を買いに行くのが日課になっていた。
3カ月前までは週1のペースで通っていた。
体の調子が悪いときは、それでもタクシーや友達の車で来ていた。
あるときは、「手足がきつい」と床に座り込んだこともあった。
コンビニへ通う回数も減って、最後に行ったのは1カ月前だった。
弟から警察へ「2週間ほど連絡が取れないので、見に行ってほしい」と連絡が入った。これを受けて自宅に向かったが鍵がかかって中には入れなかった。
翌日、鍵を持っている弟と警察が自宅2階寝室で遺体となった大原麗子さんを発見する。
室内は物色された後もなければ、現金も取られておらず、遺体に外傷もなく病死だったが、腐乱も進んでいた、という。
きょうのスポーツ各紙には「孤独死」の見出しが躍った。
華やかな芸能界とはかけ離れた孤独な死だった。
森進一との2度目の離婚は37歳の時。「執着するのは人でもモノでも嫌」と3度目の結婚はなかった。
最後にテレビのインタビューに答えたのは去年11月に骨折したときだった。
インターホン越しに前田忠明が「頑張ってくださいね」と最後に声を掛けたときだった。
「私、頑張ってくださいという言葉が嫌いなんです。人間、頑張らなくてもいいんです。私は頑張ったから病気になったんです」と励ましの言葉を断った。
62歳だった。
もう頑張らなくてもいいですから、安らかにお眠りください。
合掌
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