東京ヤクルトスワローズ前監督の古田敦也。
強いものだけが生き残られるプロ野球界。メガネをかけたキャッチャーは大成しないといわれながら、18年間現役生活を続け、名球界入りも果たした。
「プロ野球選手にはなりたいと思っていた。でも、川西で野球がうまいぐらいではプロ野球選手になれるとは思っていなかった」と古田が述懐するように、古田家の貧乏物語なしにはプロへの道は開けなかった。
古田の父親は柔道で国体にも出場したほどのスポーツマンで、相撲も得意だった。若いころ相当練習をして国体に出たが、柔道では飯が食えなかった。プロ野球ならゼニになる。同じスポーツをするならカネになるスポーツを子供にはやらせたかった。小学生の古田は父親から「野球をやれ」。これが野球を始めるきっかけでもある。
幼い古田を背中に乗せて腕立て伏せをするような父親だった。それはそれは怖い存在で逆らえなかった。
古田は母親のことをオカン、と呼ぶ。
このオカンが「ハングリー精神の塊で、絶対に負けたらアカンのや!」と父親にも増してスパルタだった。
古田には7つ年上の兄がいる。
古田が小学校へ上がった時は中学生だった。オカンは兄が乗る大人用の自転車に小学校へ入ったばっかりの古田に乗るように命じた。
両親は共働き。オカンは雀荘のおあばちゃんをやっていた。平日は夜11時まで雀荘で働いていた。昼に晩飯を作って働きに出かけた。平日はオカンと晩飯を食うことはなかった。
土日は古田の少年野球チームの練習を見に来るのが楽しみだった。そんなオカンを喜ばせてやろうと思ってがんばった。
古田が進んだ高校は川西明峰。創立4年目の新設校だった。川西明峰を選んだ理由は自宅から一番近かったためだ。
この頃にはプロ野球選手になることは諦めていた。川西ですごい、といわれてもプロでは通用するはずもない。
「勉強はできた」という古田。
やがて大学に進学する。関西大学と立命館大学の2校に合格した。古田本人は関大へ入学するつもりだった。自宅から京都へは通えない。下宿する必要がある。家庭はそれほど裕福でもない。余分な金がかかることを心配したからだ。
ところが、立命館の野球部の監督から川西明峰の監督に古田が欲しいという電話が入った。高校の監督にはお金の事情で行けないと断って欲しいといったが「お前が直接行って断ってこい」。
それで断るために京都に向かった。立命館の監督は断りにくることを承知していた。懐柔作戦に出た。
いきなり監督から握手を求められ断りにくい雰囲気に。さらにマネージャーに「メシでも食わせてやれ」。18歳の古田少年はこのとき大接待を受ける。飲めや歌えの歓待。
「京都はいい!京都へ行かなかったら悔いが残る」
一発で篭絡される。
古田はここでオカンに相談する。
「貧乏だけど京都へ行きたい。下宿代はいくらまでなら出してもらえるかな」
「行きたいところへ行け」
オカンは快諾してくれた。
いざ、入学してみると大学の体育会の厳しさに直面する。入学前はお客さまだったが、入部と同時に殴る蹴る。高校はあまり練習もしない弱い学校だったので、あまりのギャップにその日から辞めたくなった。
それでも1年生のときから1軍に一番近いポジションにいたので2年、3年生から妬まれた。
オカンは「働いて頑張るから好きなことをやれ」と応援し続けてくれた。
4年間頑張った。全日本のメンバーにも選ばれ、ドラフト候補生としてスポーツ新聞を賑わせるようになる。本人も絶対にプロへ行けるものと思い始めた。
ドラフトの前日には、古田の実家にある球団からドラフト指名の電話が入った。
その電話を取ったのはオカンだった。
古田家にゼニがちらついてきた瞬間だった。
ドラフト当日。立命館大学では記者会見の用意がされた。垂れ幕の準備までされ準備は万端だった。
ところが、電話のあった球団からの指名はなかった。
実家は寿司を取って親戚、近所、記者が集まり宴の準備までしていた。
古田は「実力が足りなかった」と諦めたが、電話口のオカンは「約束を反故にされた」と泣いていた。怒りがこみ上げてきた。
「2年後を見ておけよ。絶対プロに行ってやるから」と心に誓った。
実家に電話してきたのは大物監督だった。
古田は「あんたがカツや!」
積年の恨みから未だに会いたくない存在のようだ。
プロに入って3年目のオープン戦で会う。
「お~お前が古田か。俺はお前が活躍することは分かっていた。俺の目はすげぇだろう」
一言でもあのときのことを謝って欲しい、と思ったが本人はそのことは忘れていたようだ。
トヨタ自動車で2年頑張った。ソウルオリンピック代表にも選ばれた。名前も売れてきた。
2年後のドラフトでヤクルトから指名が入った。
喜び勇んでオカンに電話した。
「オカンやったぞ!」
ところが、オカンは意外な反応を示した。
「トヨタはいい会社だから、ヤクルトへ行くのは止めたら」
プロは入って見なければ分からない世界。球団の支配化選手は60人。毎年10人の新人が入る。ということは10人は静かにユニフォームを脱ぐ。
この頃になるとオカンは安定した生活を望んだ。プロに入って今までの投資分を何倍にもして取り戻すことが古田家の夢だったのに。
ヤクルトは弱い球団だったので古田の出番はすぐに訪れた。野村監督の元で9年間頭を使う野球を叩き込まれた。
プロ野球選手の中には貧乏自慢が多いが、裕福なお坊ちゃまよりハングリー精神が強いほうが生き残るのはいうまでもない。
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