清原和博がこんなに面白い男だとは思わなかった。
関テレの正月特番「清原和博 男の一升瓶~野球人生ぶっちゃけSP~」は清原の人間性がよく引き出せていた。
番組収録は梅田のウエスティンホテル大阪で行われた。
伊丹空港まで出迎えたのはPL学園で2年後輩の片岡篤史。リムジンの中でシャンパンを飲み始め、番組収録も飲みながら、食べながらのリラックスしたムードの中で、岩本勉がさらに場を盛り上げる展開で、清原の口も実に滑らかだった。
最初の質問は人生の分かれ道となったドラフト会議の話から。
その前に、PLの野球部は全寮制、という下りに触れておかなければ、後半の話につながらない。
野球部の寮は地下1階。他とは完全に隔離された世界で、1年生は1年間テレビ、電話は禁止。外出もままならず、プリズンブレイク状態。寮から学校までの3キロを登校するときも整列して「歩調、歩調」と掛け声をかけながら学校に行かなければならない。
1年生は「交通刑務所」のような生活を送るので、試合になると負ける気がしなかった、という。
きつい練習の中、授業中は堂々と寝ていた。清原と桑田は机も隣同士。教師も特別扱いで居眠りを黙認していた、という。
たまに清原の存在を知らない教師が注意すると「なんじゃ、コラ!」と威嚇していた。
ちなみに、清原は桑田が居眠りしているのを1回も見たことがない、というが、桑田は清原より遅く寝て、早く起きるので清原がそれを知らないだけだっと、とか。
そして、運命のドラフト会議。
相思相愛であった巨人からの氏名はかからず、巨人が指名したのはまさかの桑田。
清原はセ・リーグなら中日、阪神、巨人ならOKでパ・リーグからの指名なら社会人野球の日本生命に行くつもりで試験も受けていた、という。
ドラフトの結果は校内放送され、会見でも涙を見せた清原は泣きながら教室へ戻っていく姿を見たのが片岡。
ドラフトの結果に怒ったのがチームメイト。「桑田を探せ!」と金属バットを持って騒ぎはじめ、「ルーキーズ」状態になったために「西武」へ行く、といってその場を収めた、という。
最初に書いたサインは「西部」になっていた。
それ以来、桑田とは絶縁状態で、それは巨人へ入っても変わらなかった。やっと和解できるようになったのは23年後。桑田が巨人をクビになったことがきっかけだったようだ。
現在、清原は芦屋に住んでいる。同じく片岡も芦屋で、清原の家よりももっと高いところに居を構えている。
それが気に入らなかったのか、早朝4時過ぎに押しかけ、ガレージにタックルしながら片岡をたたき起こした。
「うちの子供は6時に起きるからええんじゃ」とわけのわからない理由に後輩はなすすべもなかった。
心の恩師でもある仰木監督の悲報を聞いたのはハワイだった。
悲しさを紛らわせるために、その日はワインを20本も空けた。そのときに酔っ払って、ゲロを吐いたのが山本浩二氏の部屋だった。
シーズン中も朝まで飲んで始発の新幹線で東京へ移動するために、早朝の新大阪駅へ向かい、キヨスクのシャッターを蹴りまくっていたが、誰も清原とは気づかず、変な酔っ払いに絡まれたくない、という思いから無視されたらしい。
ちなみに、一晩で使った最高額は500万円。現金は女の子に渡すチップ用に持っている以外はカード。
引退試合に向け、前日はあいさつを考えるために、お気に入りのドライブコースに愛車を走らせた。
芦屋から湾岸線で関空まで往復したが、結局思い浮かばず、その夜はぐっすり眠れた。
ドラフトで巨人に裏切られ、その後フリーエージェントで巨人に入団するも、クビを宣告されたときは9年間「お疲れさま」の一言もなかった、と憤るが巨人はそれでも好きな球団のようだ。
閑散としたパリーグの球場で試合をするよりも、4~5万人の観客の中で輝きたかったようだ。
阪神を選ばなかったのは、打てなかったときのヤジ。
桑田は指導者の道が似合っているが、清原のトークなら芸能界でも十分活躍できる腕がある。
ドラフト会見のときのテーブルを清原は真っ二つに叩き割ったらしい。そのテーブルがどうなっているか気になっていた。
PL学園は記念に残しているか、処分したか、2つに一つ。
そんなことが気になっている清原のために、関テレはテーブルを捜索せよ。
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